SMが格式化される理由

 私がSMの世界に足を踏み入れる以前から腑に落ちないでいる「SMの格式」という存在。
 閉鎖的で排他的、まるでSM世界の門番のように立ち塞がる崇高な世界観、それが格式です。
 SMのハードな一面だけを切り取って「この程度はこなせて当たり前」と言わんばかりの誇大化や、緊縛美に象徴される完璧さをさも当然と見せつけるSMの芸術化。
 紳士淑女の嗜みと言われ、ソフトなプレイは否定され、とっても崇高でハードルの高い性癖だと思われているのが現状です。

 SMというのは数少ない特殊性癖を持つ人間だけの世界…というのが現在の認識でしょう。
 そして「私はそんなにハードじゃないから違う」と思われ、敬遠されてしまう。
 ソフトSMがSEXのオプションとしてやっと少し受け入れられ始めたこの頃ですが、「ソフト」を外したSMには今でも物凄い抵抗感がありますよね?
 そんな「ソフトSM」と「SM」の間に存在するギャップを私は「格式」と位置づけています。

 正直に申しますと、大体の皆さまが想像しているSM世界は虚像です。
 「調教師」「性奴隷」「調教」といった独特の重みを持つ用語や先鋭化したイメージばかりが目立ちますが、実際のSMはもっとユルいものなのだと思って下さい。
 調教というのは心身の駆け引きのような、または探り合いのような行為です。
 お互いの欲望を露わにし合う事で本能を解き放つのが目的ですから、崇高なSMの世界観というのは理性への免罪符でしかないんですね。
 主従という歪な関係を結ぶというのはどうしても理性が邪魔をしますので、理性を納得させる為に虚像を与えているだけなのです。
 「陶酔」という表現が妥当かはわかりませんが、恐らくそれに近い不確かなものがSMの世界観です。

 お互いの欲望を擦り合わせて現実レベルで虚像を築いていくのが調教でありSMなのです。
 そこにはもちろん孤高さも崇高さもありません。
 プレイのレベルや美意識は欲望の付加価値であって、SMの真の姿はただの醜い慰め合いです。
 格式化する事で理性に言い訳を与えているだけなのに、そのせいでSMがリアルでも崇高だと思われてしまうのは残念でなりません。

SMに実像を

 当然SMには最低限のルールやマナーがあります。
 加虐者には力を持つ者として被虐者と自らの欲求をコントロール出来る「器量」が求められますし、被虐者には従う者として忠誠心と奉仕心が求められます。
 主従関係には信頼関係が担保されていなければなりませんし、性を扱う以上はプライバシーや身体的安全が厳守されなくてはなりません。
 それ故に「紳士淑女の嗜み」と言われている訳ですね。

 でも、それってすごく当たり前の事であって、お互いが信頼し合っていれば何も特別な事ではないんですよね。
 そもそも紳士と淑女の嗜みだからって、性的な趣向が崇高な訳ないんです。
 所詮は加虐者と被虐者の醜い性癖の晒し合いなんですから。
 理性を本能で弄ぶ性の嗜みに紳士も淑女もありゃしませんよ。

 そういう訳で、必要以上にハードルをあげて初心者を怖気づかせるようなSMの格式があってはならないんじゃないか、と私は思っているのです。
 みんな自分の性癖を疑って否定して、でもやっぱり性癖を拒絶出来なくて受け入れて、恐る恐る踏み入れるものです
 初心者から始めて、性癖を晒し、貪欲に快楽を求め、高揚し、それに溺れながら経験を積んできた訳じゃないですか。
 だから経験者はいきなり初心者にハードSMを求めたりしませんよ、当たり前です。
 それなのに高いハードルが必要ですか?

 SMの実像は全く崇高なものなんかじゃなくて、お互いが手探りで性癖を認め合う、醜くも美しく人間らしい世界なんです。
 調教師だ性奴隷だと言ったって、普段は社会生活の中に漂っているフツーの人間ですしね。
 月曜21時のTVドラマに自分の姿を重ねられなかっただけの、紳士でも淑女でもない不器用な人間同士の慰め合いです。
 どうか無意味にSMを崇高なものと受け止めないで下さい。
 寂しがりや達の人間らしい世界なんですよ。


SMに関する一考察 「SM」と「ソフトSM」