そもそもSMってなんだろう?

■SMの基本的なコト。
 いきなりですが、SMがどういうものなのかテキストにするとこんな感じです。

 ”SMとは、サディズムおよびマゾヒズム的な性的嗜好に基づいて行われる倒錯的プレイ全般”
 ”加虐嗜好の「サディズム」(sadism) と被虐嗜好の「マゾヒズム」 (masochism) が組み合わせられたサドマゾキズム (sadomasochism) の略語”
 ”加虐嗜好者のことを「サディスト」(sadist) あるいは単に「S」、被虐嗜好者のことを「マゾヒスト」(masochist) あるいは単に「M」という”
―――wikiより転載

 …そうは言っても、これだけじゃわかりにくいですよね。
 どうしてもSMを説明しようとすると見慣れない単語と外来語のオンパレードになってしまうんです。
 なので、私なりの表現でSMの世界を解説してみました。
 上から順に読んで言っても、気になる項目だけジャンプして読んでみても結構です。

SMの基本的なコト - メニュー

1.SMとは…
2.攻撃性とは…
3.Sとは…
4.加虐者の快楽とは…
5.Mとは…
6.被虐者の快楽とは…
7.主従とは…
8.調教とは…
9.プレイとは…

1.SMとは…
 広義としてのSMは、加虐者(俗にいうS)と被虐者(俗にいうM)が虐待的言動(責めたり責められたり)によって心身ともに満たされようとする行為の総称です。
 この虐待的言動は性行為に限らず多岐に及びますが、かと言って暴力とはまた違います。
 「加虐者と被虐者が精神的繋がり(信頼)を持った関係である事」がSMとして成立する条件です。

 単に性的な快楽のみをSMとする向きもありますが、それはあくまで狭義です。
 支配欲や服従欲、加虐欲求や自己犠牲欲求等といった精神的欲求を満たして得られる快楽の為に「性」を利用していると思って下さい。
 なので、性的快楽は媒体であり、手段の1つに過ぎません。

 もし貴方が加虐または被虐による性的快楽を欲している場合、それは自覚の有無に関わらず既に精神的欲求が働いていると考えていいと思います。
 人間は本来S面とM面が共存しているものですが、そのバランスがどちらかに崩れていると加虐者もしくは被虐者に当てはまるという事です。
 故にSとMは各々の個性であり特性でもあります。

 …結局説明が難しくなってしまいましたが、まとめると
 加虐者と被虐者が同意の元で性的快楽を用いて精神的欲求を満たす行為
 の事をSMと定義しています。

2.攻撃性とは…
 「SMとは…」の項目に書きましたが、人間は本来S面とM面が共存しているものです。
 何故かというと全ての人間に「攻撃性」が備わっているからです。
 攻撃性とは本能の働きの1つで、原因は野性的な衝動だと言われていますが他にも諸説あります。
 自分以外の「他者」がこの世に存在する以上は消し去る事のできない本能だとされています。

 その攻撃性は本来であれば理性がコントロールできるハズなのですが、攻撃性が強すぎて理性でコントロールしきれない人もいます。
 理性が持て余した攻撃性は発散する事で昇華されるのですが、その発散先が他者に向かうと「加虐」、自分に向かうと「被虐」となる訳です。
 SMにおいて攻撃性は切っても切れない本能的動機なのですね。

3.Sとは…
 加虐者の事です。
 暴力的、攻撃的でさえあればいいというモノではありませんので、そこのところは「SMとは…」を熟読しておいて下さい。
 表面的な性衝動と支配欲で好き勝手に相手を虐めたいと思うのはSMではなく暴力です。

 SMを通して被虐者を性的、精神的な快楽へ導く事で支配欲を満たせる人に素質があります。
 「ご主人様」や「調教師」等と呼ばれたりしますが、それは被虐者と築く関係によって様々です。
 SMにおいては当然ながら殆んどの場合において被虐者が受け身になりますので、加虐者は被虐者の心身の全てを責任を持って監督する立場なのです。
 加虐者の「S」はサービスの「S」、とは上手く例えた話しだなぁと思います。

4.加虐者の快楽とは…
 加虐者にとっては文字通り被虐者を虐げる事で加虐欲求を満たす精神的快楽が主ですね。
 被虐者の反応を楽しむ事で興奮を生み出したりしています。
 また、被虐者に心身を委ねられる事で精神的な満足感を得られます。
 これが支配欲による精神的快楽と言えるでしょう。
 性的快楽としては「奉仕」や「ご褒美」等として被虐者から得る事になりますが、加虐者の立場からすると精神的快楽によって得られる満足感の方が断然上回ります。
 加虐者というのは不思議な生き物なのです。

5.Mとは…
 被虐者の事です。
 虐げられる事に快楽を覚える者として総称されていますが、その細分は様々です。
 環境や対象となる加虐者、その度合いによって被虐者それぞれに差異があります。
 精神的な圧迫から派生した被虐性か、性的興奮から派生した被虐性かというのも重要な点ですね。
 自己犠牲的快楽に例えられる事もありますが、起因するのは「自己への怒りと許し」です。

 ただ闇雲に虐げられる事を望んでいる訳ではありませんし、当然ながら社会生活において虐げられる事に対する怒りや不快感は覚えます。
 加虐者側はその点を見誤ってはいけません。
 被虐者が被虐的欲求を満たす為には適切な条件と同意が必要でしょう。
 「自己への怒りと許し」とあるように、自己を認め、虐げられる事で怒りを昇華させ、許しへ導かれる事を被虐者は求めているように思います。

6.被虐者の快楽とは…
 被虐者にとっては身体への刺激による性的快楽と被虐欲求を満たす精神的な快楽があります。
 支配される事は通常「=不自由」と考えがちですが、自らの意思や判断、責任といった理性の働きを支配者に委ねて放棄できる訳ですから、その点で言えばむしろ「=自由」でしょう。
 競争や比較、評価といった他者からの視線、劣等感や自虐心などの負い目、自己保身や外面といったプライド…その全てから解放される事を被虐者は望みます。
 「支配」や「服従」は理性への合理的条件付けと言っても過言ではありません。
 被虐願望は被虐者自身への危機感や恐怖心、攻撃性の表れです。
 性的快楽は普段理性に押し込められている自分の本能を発散する為に必要とされます。
 ただのSEXと違うのは、そこに精神的鬱屈を晴らそうとする被虐欲求が含まれているからでしょう。
 支配され、服従し、命令に応える事で精神的快楽を得ているのです。

7.主従とは…
 SMにおける加虐者と被虐者の関係は必然的に「主従」というスタンスになります。
 主導権は常に加虐者側にあり、被虐者は受け身でいる場合が殆どな訳ですから。
 社会的主従関係においては金銭や組織形態などの対価が存在し合理化されていますが、SMの世界にはそれが(基本的には)存在しません。
 なので、SMにおいての主従にはまず加虐者と被虐者の対価と合理化が求められます。
 簡単に言えば、お互いが「何を差し出し、何を得るか」という事です。

 加虐者と被虐者がSMを通して得られる事は「相手の心身」「精神的快楽」「性的快楽」の3つです。
 どちらかが上記3つのどれか1つでも得られないとなると主従関係は合理化できません。

 加虐者は被虐者の心身の全てを受け入れ、性的快楽を媒体として精神的快楽へと導く必要があります。

 被虐者は加虐者の心身の全てを受け入れ、性的快楽に奉仕しながら精神的快楽を得て貰えるよう服従する必要があります。

 これがSMの主従における根底でしょう。
 そしてこの主従関係にはお互いの信頼関係が担保されます。
 心身を差し出すという事は当然ながらリスクがありますので、誰でもいいという訳にはいきません。
 お互いが認め合った上で主従という関係を築いていけるのです。

 SMにおいては理不尽なプレイや扱いが多数あります。
 理不尽である事もまたSMの要素だからです。
 その理不尽を双方が「主従」という条件付けで合理化し納得しなければなりません。
 SMを始める前に双方が主従関係についてきちんと理解しているか確認する事を忘れないで下さい。

8.調教とは…
 調教とは人間が動物に対して芸や技術を仕込んだり、命令に従うようにする事を言います。
 その調教を施す人の事は調教師と呼びます。
 英語でトレーナー(trainer)、イヌの躾やイルカ等に芸を仕込む人達をトレーナーと言いますよね?
 SM用語として「調教」「調教師」という言葉がよく使われますが、本来の意味は人間が動物にトレーニングを施す事を指します。

 SMにおいては「SMを行っている状態」の事です。
 勿論本来の意味からすると侮蔑的な表現ではありますが、明確に加虐者と被虐者の立場を区別する意図があるので「調教」と呼ばれる事が多いですね。
 被虐者を「イヌ」「ブタ」等と罵る事を好む加虐者もいますが、調教という言葉の道理には適っています。

 では、被虐者に何を「調教」しているのかというと…
 被虐者を被虐的状況下におく事で性的・精神的な快楽をより満足に得られるように
 調教を施しているのです。
 加虐者や被虐者は「普通のSEX」だけでは物足りない欲求を抱えている事が多く、だからと言って「普通のSEX」から逸脱する性行為には羞恥心と偏見によって理性が邪魔をします。
 その理性を懐柔して性的・精神的な欲求を昇華させていくのが調教の真の目的と言えるでしょう。

 被虐者が調教において従順になり、苦痛や背徳感、羞恥などから少しずつ快楽を得られるようになっていく様を「成長」と称して加虐者は誇らしく思います。
 それが加虐者の精神的快楽と結びついています。

 調教は複数の調教項目を繋ぎ合わせて構成されます。
 1つ1つの調教項目の事は「~プレイ」「~責め」等と呼ばれます。
 調教の開始と終了がきちんと区切られている場合は回数でカウントされますが、常時主従関係にある場合は日数でカウントされます。
 調教回数や日数、調教の度合いや履歴は加虐者・被虐者の技術的経験値を計る1つの目安にもなりますが、正直あまりアテにはなりません。
 あくまで主従関係にある2人の中での物差しと言えます。
 主従関係がより深くなり、加虐者と被虐者の信頼関係が強固になっていけるように調教を重ねていく事が最重要でしょう。
 それによって得られる精神的快楽も増していくのですから。

9.プレイとは…
 調教を構成する1つ1つの調教項目は「プレイ」と称されます。
 「~プレイ」や「~責め」なんて表現、耳にした事ありませんか?正にそれの事です。
 例えるなら調教は「線」でプレイは「点」ですね。
 加虐者は被虐者の状態や願望に合わせて、数あるプレイの中から幾つかを選択して調教を構成していきます。
 構成されたものは「調教メニュー」や「調教リスト」とも言います。

 1回の調教メニューを予め決めてから調教を開始する加虐者もいれば、調教を開始してから臨機応変にプレイを繋いでいく加虐者もいます。
 どちらもその加虐者が経験とスキルで判断したスタイルですので、良し悪しの問題ではありません。
 但し、加虐者の出来心だけでアレコレ好き勝手にプレイしていくのはSMではなく只のエゴです。
 被虐者がより高度なプレイを受け入れられるように成長させていくのが調教の醍醐味であり、加虐者に求められる器量なのです。

 プレイは本当に数えきれない位の種類があり、それはSMに限定したものからそうでないものまで多岐に及びます。
 ノーマルな性行為に思えるようなプレイでも「主従」という背景を持たせる事で被虐的に捉えさせるような応用が利くので、それこそ被虐者が心身のどこかに被虐的快楽を覚えれば日常行為でさえもプレイになり得るのです。
 被虐スイッチを探すのは加虐者の楽しみと言えるでしょう。

 …長々と最後までお読み下さり、ありがとうございました。
 知識を文字に直す作業は大変苦労しますが、それでもSMの世界に少しでも興味を持って頂けるようになれば報われるかなぁ、と思う次第です。
 もっと詳しく知りたい!という人の為に第二章をご用意しました。

■第二章・SMってどうやるの…?
調教のスタイルとメニュー
こちらにお進み下さいね。