調教師の本質

 SMの世界で加虐者に対してよく使われる「調教師」という表現。
 被虐者にSMの所作から快楽の手解きまで全てを仕込み、確実に性的・身体的高揚へ導いていく技術を評して「師」と呼ばれます。

 調教師と被虐者との間は強固な信頼関係で結ばれていますが、主従関係は余り色濃くありません。
 「師」である以上は結果が求められますので、被虐者の性的・身体的欲求を高いレベルで満たすだけでなく、更なる被虐的快楽欲求を与えていかなくてはなりません。
 被虐者にしても同じ事で、自らが被虐者として成長出来なければ調教師の名を汚す事になる訳ですから、貪欲にプレイを受けて快楽に呑まれる必要があります。

 どちらも性的・身体的快楽は大きく得られますが、それだけに調教はハードさを増していくので負担も大きいと言えます。
 そうなってくるとお互いプロ意識とでも言うのでしょうか、主従のような形式や条件付けを上回る連帯意識が生まれてくるんですね。
 ストイック過ぎて普通の人には理解できない関係が2人の中に出来上がってしまうのです。

 この「普通の人には理解できない関係」というのは非常にドライでクールです。
 ビジネスライクですので、お互い目的の為に一点集中しています。
 加虐者・被虐者の「人間」そのものについては全くと言って良いほど掘り下げません。
 純粋に好虐的なプレイで性的・身体的快楽のみを追求している「SM原理主義」に近い関係です。

 私の知っている限りで「師」を名乗る加虐者さんは数人いますが、皆さんSMに対しては非常に割り切った考えをお持ちになられていました。
 「被虐者の人間性は問わず、ただ調教にのみ拘る」という意見や、「被虐者の事を知り過ぎてしまうと加虐に加減が生まれてしまう」という調教師さんも。
 「師」を名乗るには相当の業と覚悟が必要なのです。

調教主の心構え

 私が「師」ではなく「主」を名乗るのは、SMに対して上記のようなストイックさを求めていないからです。
 どちらが良い悪いではなく、これはあくまで私の趣向としての話ですよ。

 SMというのはお互いの性的で精神的な欲望を曝け出して昇華し合う「醜さ」こそが魅力なんじゃないかなぁと思うのです。
 惨めで陰湿で卑猥で見苦しくて汚らわしい、それがSMらしさだと思いますし、その醜さをお互いが受け入れ合う事にSMの本質を見出しているのです。

 だから私は被虐者の人間性を排除できませんし、無視もできません。
 「身体だけじゃなく、心ごと差し出して欲しい」と被虐志願者にお願いしているのはそういう訳なのです。
 調教時だけのご縁であっても、主従である以上は被虐者の人間らしさや醜さも含めて全て独占したいですからね、やっぱり。

 「主」を名乗るもう1つの理由は「主従関係」に拘っているからです。
 身体的快楽だけでなく、精神的快楽にも重点をおいて調教を施したいというのがその理由です。
 もちろん調教には向上心を求めますし、お互いがより高いレベルで欲求を昇華させる事を目的に行いますが、その手法や論理は主従を軸として考えているという事です。

 私が当サイトで被虐者を「性奴隷」と呼称している事に違和感を覚える人がいるかもしれません。
 何故私がそう呼称するかというと、被虐者を「人間」として調教しているからなのです。
 「牝ブタ」「牝犬」のように動物として扱うスタイルや「物」扱いをするスタイルなど様々な主従の形がありますが、私のスタイルの場合、被虐者は性奴隷でありペットです。

 人間である事の尊厳を与えたままで主従関係を結ぶのが私の拘りです。
 その方が被虐者の人間性を引き出せますし、より惨めで被虐的だという精神的圧迫感を与えられます。
 「性奴隷」と言えば乱暴な呼び方かもしれませんが、主従においては大切な存在なのですよ。

 SMの技術的な調教以外にも心的な調教で絆を築きたい、それが「主」たる所以です。
 私の得意分野がペットプレイなのは被虐者との絆を求める気持ちが根底に強くあるからなのかもしれません。


SMに関する一考察 調教を記録に残す意味